年間読書人

その名のとおり、読書が趣味で、守備範囲はかなり広範ですが、主に「文学全般」「宗教」「映…

年間読書人

その名のとおり、読書が趣味で、守備範囲はかなり広範ですが、主に「文学全般」「宗教」「映画」「アニメ」に関連するところ。昔から論争家で、書く文章は、いまどき流行らない、忌憚のない批評文が多い。要は、本音主義でおべんちゃらが大嫌い。ただし論理的です。だからタチが悪いとも言われる。

マガジン

  • 「エンタメ(マンガ・アニメ・映画など)」作品のレビュー

    広く「マンガ」「アニメ」「映画」など、エンタメ作品関係のレビューを紹介します。後日整理の予定。

  • 「学術書・学術啓蒙書」のレビュー

    人文書、科学書など(別立ての宗教関連書を除く)学術書と啓蒙書を紹介します。

  • 「思想・哲学」関連書のレビュー

    「思想」「哲学」関連のレビューを紹介します。

  • 「政治・経済・社会」関連書のレビュー

    「政治」「経済」「社会」などの関連書のレビューを紹介します。

  • 「保守派・右派」思想・政治・宗教関連書レビュー

    保守思想、政治保守、保守派、エセ保守、キリスト教保守派、宗教右派、ネトウヨ 、右翼思想、真正右翼、街宣右葉などの関連書のレビューです。

最近の記事

  • 固定された記事

〈宇山秀雄殺し〉の 謎を解く : 『宇山日出臣 追悼文集』の密室

書評:太田克史編『新本格ミステリはどのようにして生まれてきたのか? 編集者宇山日出臣追悼文集』(星海社) エディターネーム「宇山日出臣」、本名「宇山秀雄」が、「新本格ミステリの仕掛け人」などと呼ばれた名編集者であることについて、ここであらためて説明する必要などないだろう。本書を購読したり、ネットで本書の内容を確認したりするほどの人なら、宇山についてそれなりの予備知識を、あらかじめ持っているはずだからだ。 本書は内容は、次のとおり。 (1)序文(太田克史) (2)編集者・

    • ジョナサン・グレイザー監督 『関心領域』 : 本作のレビュアーたちも、きっと同じことをする。

      映画評:ジョナサン・グレイザー監督『関心領域』(2023年、イギリス・ポーランド・アメリカ合作映画) この映画で語られていることは、そんなに難しいことではない。これは「私たち自身の寓話」なのだ。 ここに描かれていることを「なんと恐ろしい」などと思う人は、自分自身の「恐ろしさ」に気づいていないだけである。 そうした人の「恐ろしさ」とは、「あんなやつ(ら)、死んでしまえば清々するのに」と本気で考え、実際そうなって、それで「ザマアミロ」と溜飲をさげてさえ、しかし、公式な発言では

      • 川野芽生 『かわいいピンクの竜になる』 : 「みにくい凡獣の価値観」に抗する。

        書評:川野芽生『かわいいピンクの竜になる』(左右社) なかなか強烈なエッセイ集だ。やはり川野芽生は、本物の「作家」だと確信させるに足りるものが、ここにはハッキリと印されている。 何がすごいと言って、彼女の「私は可愛いに決まっているし、そんなこと、人からとやかく言われる(論評される)ことではない。私は私が好ましい思えるものを追求するだけなのだ」と言い切る、その覚悟と徹底性においてである。 つまり、世間並みに右顧左眄して「世間の顔色」を窺い、謙虚ぶって「ウケ」を狙いにいくよ

        • アルフレッド・ヒッチコック監督 『疑惑の影』 : ミステリマニア登場す。

          映画評:アルフレッド・ヒッチコック監督『疑惑の影』(1943年・モノクロ映画) 本作『疑惑の影』は、ヒッチコックお得意の「サスペンスミステリー」だが、ヒッチコックらしい「妙なユーモア」は影を潜めて、わりあいオーソドックスに仕上がっているところが、かえって私には好感が持てた。 タイトルのとおり、本作は、主人公のハイティーン「シャーロット・"チャーリー"・ニュートン」が、彼女の母の末弟として久しぶりに訪ねてきた“チャーリー”叔父さんに、凶悪犯罪者としての「疑惑」を募らせていく

        • 固定された記事

        〈宇山秀雄殺し〉の 謎を解く : 『宇山日出臣 追悼文集』の密室

        • ジョナサン・グレイザー監督 『関心領域』 : 本作のレビュアーたちも、きっと同じことをする。

        • 川野芽生 『かわいいピンクの竜になる』 : 「みにくい凡獣の価値観」に抗する。

        • アルフレッド・ヒッチコック監督 『疑惑の影』 : ミステリマニア登場す。

        マガジン

        • 「エンタメ(マンガ・アニメ・映画など)」作品のレビュー
          647本
        • 「学術書・学術啓蒙書」のレビュー
          793本
        • 「思想・哲学」関連書のレビュー
          793本
        • 「政治・経済・社会」関連書のレビュー
          946本
        • 「保守派・右派」思想・政治・宗教関連書レビュー
          339本
        • 「キリスト教」関連書レビュー
          366本

        記事

          ジョルジョ・アガンベン 『瀆神』 : 「瀆神」と「瀆聖」の違い

          書評:ジョルジョ・アガンベン『瀆神』(月曜社) 難解な書物である。哲学書なのだから、それは当前だと思われる方も多いはずだが、Amazonに本書のカスタマーレビューを寄せている人たちは、おおむね本書を「簡明」だと評している。「簡明」とは、無論「簡単明瞭」ということである「複雑ではなく明らかで、わかりやすい」ということだ。一一しかし、私はそうは思わない。 たしかに、140ページほどしかない本書には、エッセイとも詩文ともつかない思弁的な短文が10篇も収められている。つまり、個々

          ジョルジョ・アガンベン 『瀆神』 : 「瀆神」と「瀆聖」の違い

          小津安二郎監督 『戸田家の兄妹』 : 「肉親でさえ冷たい」という怒りの、真の矛先

          映画評:小津安二郎監督『戸田家の兄妹』(1941年・モノクロ映画) 本作は、小津安二郎が「日中戦争」から帰還した「戦中」に作られた作品である。 当然のことながら、この事実は、本作を評価する上で重要な意味を持っている。言い換えれば、本作は「フラットの立場」から撮られた作品ではない、ということだ。 この説明は、歴史にうとい人には誤解を招きやすい。 前述のとおりで、これは、小津は「日中戦争」から戻ってはきたものの、戦争は終わるどころではなく、むしろ日本の望まなかった対米英の「

          小津安二郎監督 『戸田家の兄妹』 : 「肉親でさえ冷たい」という怒りの、真の矛先

          平方イコルスン 『ふたりで木々を』 : クセの強い愛しき友情

          書評:平方イコルスン『ふたりで木々を』(白泉社) まさに傑作集である。 平方イコルスンは、一貫して「友情と孤独」を描き続けてきた作家だ。 それはしばしばコメディとして、ごくまれに悲劇として描かれたりもするが、そこで語られていることは一貫している。 主人公である少女たち(まれに少年)は、「友情」を求めているだが、それは「美しい友情」などではなく「手応えのある友情」だ。なぜならば、「美しい友情」というのは、しばしば儚いものであり、失われてから「美しい」ものとして想起されるよう

          平方イコルスン 『ふたりで木々を』 : クセの強い愛しき友情

          蓮實重彦 『ショットとは何か』 : 蓮實が不得意な アニメから見た 「実写ショット」の意味

          書評:蓮實重彦『ショットとは何か』(講談社) とても面白かった。何が「面白かった」と言って、蓮實重彦が「映画」の「何(どの部分)」を重視していたのかが、ハッキリとわかった点である。 他にもいろいろ面白い部分はあったのだが、あれこれ書いていては長くなりすぎるので、本稿では『蓮實重彦が「映画」の「何(どの部分)」を重視としていたのか』の部分に限定して、以下に論じていこう。 ただ、最初につけ加えておけば、『蓮實重彦が「映画」の「何(どの部分)」を重視としていたのか』というのは、

          蓮實重彦 『ショットとは何か』 : 蓮實が不得意な アニメから見た 「実写ショット」の意味

          塚原重義監督 『クラユカバ』 『クラメルカガリ』 : 暗示と憑き物落とし

          映画評:塚原重義監督『クラユカバ』『クラメルカガリ』(2023年・2024年) 塚原重義監督による『クラユカバ』と『クラメルカガリ』の2本は、どちらも「60分ほどの劇場用中編アニメーション作品」である。 『クラユカバ』は、塚原監督の完全オリジナル作品であり、『クラメルカガリ』の方は、作家・成田良悟による同作のスピンオフ小説を原案に、塚原がアニメ化した作品という位置づけになる。 塚原重義監督は、いわゆる「Web系アニメーター」で、『クラユカバ』までは「商業アニメーション制作

          塚原重義監督 『クラユカバ』 『クラメルカガリ』 : 暗示と憑き物落とし

          吉村萬壱 『みんなのお墓』 : 開放と死

          書評:吉村萬壱『みんなのお墓』(徳間書店) どう評していいのか、困ってしまう作品である。 例えば本書の帯(背面)には、伊坂幸太郎による次のような推薦文が刷られている。 この推薦文は、たしかによく「吉村萬壱の作風」を捉えている。 だが、これだけでは、本作がどんな小説なのかは、さっぱりわからない。 『どこか』と書かれているように、「どこが」可笑しいのか語られていないし、伊坂自身、それをはっきりと把握できてはいないのではないだろうか。だからこそ『気にかけている』のではないか。

          吉村萬壱 『みんなのお墓』 : 開放と死

          マルコ・ベロッキオ監督 『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』 : 何が「元凶」なのか?

          映画評:マルコ・ベロッキオ監督『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』(2023年、イタリア・フランス・ドイツ合作) 本作は、実話である「エドガルド・モルターラ誘拐事件」をもとにして作られた映画であり、特定の原作があるわけではない。同事件に関するヴェットリオ・メッサーリの著作(未訳)を読んだ、マルコ・ベロッキオ監督が、この歴史的な事件に興味を持ち、自分でもいろいろ調べて書き上げたオリジナル脚本を映画にしたのが本作なのだ。 本作の宣伝文句にもあるとおり、ベロッキオと

          マルコ・ベロッキオ監督 『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』 : 何が「元凶」なのか?

          コマツシンヤ 『午后のあくび 3』 : さようなら あわこさん。また会う日まで。

          書評:コマツシンヤ『午后のあくび 3』(全3巻・亜紀書房) これまで、いろいろな漫画や小説を読んできたが、完結するのが残念に思えた作品は、そう多くはない。 例えば、何冊にもなる長編漫画や長編小説は、面白ければどんどん読んでいって、読み終えれば「ああ、面白かった」とか「途中までは良かったんだが、途中からダレてきたな」とかいった印象だの感想だのを持つことはあっても、読み終えてこと自体に「残念さ」だとか「淋しさ」といったことを感じた記憶は、ほとんど無いのだ。 どうしてだろうと

          コマツシンヤ 『午后のあくび 3』 : さようなら あわこさん。また会う日まで。

          クロード・シャブロル監督 『美しきセルジュ』 : 意外に褒めてもらえない「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品の裏事情

          映画評:クロード・シャブロル監督『美しきセルジュ』(1957年・フランス映画) 本作は『ヌーヴェル・ヴァーグの発火点』と呼ばれる作品の「ひとつ」だということは、もうひとつの「発火点」作品である短編作品『王手飛車取り』(ジャック・リヴェット監督)についてのレビューに書いておいた。 本作『美しきセルジュ』と、短編『王手飛車取り』の2作は、同じ監督の作品ではないにもかかわらず、どうして日本では抱き合わせでDVD化されているのかというと、それは両作が、それぞれの監督の作品としての

          クロード・シャブロル監督 『美しきセルジュ』 : 意外に褒めてもらえない「ヌーヴェル・ヴァーグ」作品の裏事情

          古田徹也 『謝罪論 謝るとは 何をすることなのか』 : 人の振り見て、わが振り直せ

          書評:古田徹也『謝罪論 謝るとは何をすることなのか』(柏書房) 本書の「プロローグ」は、まず「子供に謝罪を教えることの難しさ」という、身近な話題から入る。その「プロローグ」の最初の見出しは「謝ることを、子どもにどう教える?」というものだ。 たしかに、「謝罪」というのは「形式」を伴うものだが、上の子供の事例のように、ただ「形式」さえあれば良いのではない(「形式が整っていなければならない」とも言えるだろう)。つまり、おのずとその「中身」が問われるのだから、当然むずかしい話にな

          古田徹也 『謝罪論 謝るとは 何をすることなのか』 : 人の振り見て、わが振り直せ

          クリスチャン・タフドルップ監督 『胸騒ぎ』 : 日本人こそが見るべき映画

          映画評:クリスチャン・タフドルップ監督『胸騒ぎ』(2022年、デンマーク・オランダ合作映画) 本作を紹介するネットニュースを読んで興味を持った。映画公開前のニュースだったから、ネタバレにならないように注意して書かれたものであり、どんな映画なのか、その正確なところはわからなかった。 だが、旅先で知り合った、デンマーク人夫婦とオランダ人夫婦の「文化的齟齬」か何かを扱ったホラー映画のようで、少なくとも超常現象だの怪物だのを扱った作品ではなく、繊細な心理ホラーのようだと、おおよそそ

          クリスチャン・タフドルップ監督 『胸騒ぎ』 : 日本人こそが見るべき映画

          サミュエル・R・ディレイニー 『ノヴァ』 : オリエンタリズム的「文学性」の勘違い

          書評:サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』(ハヤカワ文庫) サミュエル・R・ディレイニーが、アメリカにおける「ニュー・ウエーブSF」の代表選手のひとりだということくらいは、ずいぶん前から知っていた。今となっては、40年以上前の話である。 その頃すでに、「ニュー・ウエーブSF」の日本での紹介者として知られ、『季刊NW-SF』という雑誌まで出していたSF作家・山野浩一については、短編をいくつか読んでおり、ファンにもなっていたためだ。 山野の作風が「ニュー・ウエーブSF」を代

          サミュエル・R・ディレイニー 『ノヴァ』 : オリエンタリズム的「文学性」の勘違い